2021/04/05
今週のこの記事一つ202104−01(19)
フクシマ第一原発メルトダウン逃避行中に亡くなられたベーテルの患者さんたちの無念を想う−3.112011フクシマ連稿12
河北新報. 2021年3月31日発行の第1面①、第3面②.
① 女川再稼働:地元同意「支持せず」59%−避難計画「不十分」64%−
② 女川再稼働「反対」61%
−原発安全性「不安」81%−
河北新報.2021年3月29日発行の第1面③、第3面④
③ 宮城・震度5強 4年ぶり津波注意報:避難 徒歩より車−渋滞多発 コロナ不安視も−
④ 津波注意報で避難指示出さず:高台移転など対策進む−宮城6市町 県指針と差 悩みも−
ゲンパツ問題について、人が自分をナニモノと問えば上等だ。己、また貴方という個人へのこの問いかけには深い意味があり、フクシマで直接被災した人は溢れすぎる深い悲しみの含蓄を込めて己の立ち位置を反芻しているだろう。ただただたまたま幸いにもフクシマにはならなかったオナガワの場合はどうか。オナガワは3.11では有り難い避難所だったとも褒められているとも聞く。
個別課題に関して、自分、そしてあなたは何者かであるのかの問いかけ一般は先ずは、人種、民族、部族、隔離・遮断地域人、などの区分で語られよう。一方、個人が最も大事にする主観に宗教様相が加わる。次に、国民という空疎な概念で考えれば、その世俗的な上位概念は国家だから、世界中の国民に、原発に対して一体あなたは何者と問うことになる。ドイツやスイスのように国策方針が民意に支えられているのと、そうではない国民の場合とでは、個人に対して問いかけられたとして、個人の答えの内容をつぶさに吟味しても意味をなす作業とはなりそうもない。なにしろこの国は3.112011フクシマの後に世界にゲンパツを売り込もうとした大した国なのだから。ゲンパツ建設の金勘定を除外して、いずれ、たとえばイギリスやフィリピン、インドネシアを含めて世界各国の複雑に錯綜した国民感情までを調べ尽くさなければならない。国なるものは、たまたま住まう人々を国民、ある場合には人民と呼ぶ。たまたま生まれてきてしまい日本人と呼ばれ、内では国民と呼ばれるのはえらい迷惑なのだが、日本に生まれたら日本人なのはいたしかたない。この問題はこうよと応えようから、民族国家的な人民の答えになろうのは、どうしようもない。
ならば、ゲンパツ再稼働は、と突きつけたら、はてさて。加えて、オナガワは3.112011の直接の被災地なのだが、と問うたれば、どなたもそのしつこい問いかけに困惑するであろう。だから、問いかけ。
今回はそんな面倒くさい話にしたい。突然に、とにかく、オナガワ、の話だ。マスコミはありがたい存在で、オナガワをいまなお、相手にしてくれる。だから、女川、そして石巻に住んでいなくとも、オナガワを思い出すよすがを与えてくれる。美しく言えば、ジャーナリズムに殉ずる担当記者達は、オナガワの機熟すまでの過程では、時宜を得て天職任務として記事を作り続ける準備を怠ることはなく、そしてもちろん、何としても記事にするぞという専門職業性に燃えている。新聞社や放送会社はなぜか地域毎にあり、時には時代的に国という政体と通じて走狗とされたし、自らも志願した。一方、ジャーナリズムは強大な経済資本ともなったし、今もなれる。そんなジャーナリズムは、何万年も続き末代まで及ぶゲンパツ問題を語り継ぎ、今のこの時代ビトの一瞬の時に過ぎない振る舞い、あるいは選択の結果を、幾代もの末代が、ありがたい先祖さまがいらっしゃったから安全に過ごせて来れたのだと、崇め続けることができるよう奮闘してほしい。今こそが頑張り時だ。
さて、この場合のマスコミは河北新報だ。河北新報がオナガワ再稼働について、「有権者」の「世論調査」を実施した。ありがたい。この種の普通の調査と記事がなければ、この世の、この時点で、そして、いまたまたま宮城県に住んでいることになっている私どもは、その一人ひとりが、そして自分を含めて、オナガワとの関係で個人、そう私、そしてあなたが、人は自分がナニモノ足りえるのかすら分からない、情報なしの状態を強いられる(正しくは、されているし、されてしまう)。河北がオナガワ再稼働の一大事を後追いしてくれる。本当にありがたい。
とはいえ、河北とオナガワ東北電力は元来尋常ならざるラヴラヴ関係であるはずだ。オナガワ電力と友であれ恋人であれ、運命共同体であれ、河北には河北の矜恃がある。他方、河北は地元問題を深掘りできる唯一のジャーナリズム存在だろうから、全国紙や地方紙との関係では、弛まない宮城発信の学術ジャーナリズムとしての揺るぎない存在価値が常に期待されている。河北は河北以上となる学際的アイディティティが保たれる緊張状態にあるからこそ、河北として、河北ならではのお仕事に成り上がる。
何の因果か、いまたまたまこの地に住んでいる私どもは、また厄介なことに住民とも呼ばれ、所在地毎に区分けされている。仙台住民は鹿児島のセンダイに移住することもできるが、目下、さしあたり川内住民ではない。この記事は、詳細は伝わらないセンダイ原発の世論調査の結果ではなく、これからのオナガワの記事だ。
さて、女川町民と石巻市民はオナガワの立地2市町という国が定めたらしい特別待遇の住民となっている。専権住民となる。ながら、この記事のもととなる世論調査は不思議なことに、この2市町がある宮城県全体の「県民」としての有権者を対象全体としている。宮城県直轄オナガワらしい。オナガワ再稼働は女川町民と石巻市民だけの問題ではなかったらしいし、鳴浜原発から30kmという恣意的な数値内に存在する隣接市町村に限られる問題でもなく、県らしい。
どこからの天命なのかは知らないが、徹底したアリバイ民主主義的手続きに過ぎないのが行政決定だ。その特異な間接話法は、受益者でなければ記憶に残ることはない。一方、利権者には、この世は本来自然体らしく、実によくしっくりした居心地よいモノ世界らしい。現実は真実である、というこの上ない幸せの世界だ。当方は全く無縁だが。
今週のこの一冊に取り上げた西尾漠著「反原発運動四十五年史」では、2019年3月15日、「女川原発再稼働の是非を問う県民投票(と表現を軽くしてあるが、今回のこの記事なら成就したかも)条例」の制定を求める直接請求を県議会が否決した。早いもので2年も前の話となった。県民は普通には請求とは言わず、請願(この言葉もが実に変だ、たまたま知事である人に、たまたまの住民であった人々が請い、願う=希う)と言いがちで、どこまでもお願いの体裁だが、オナガワ県議会は「民意」条例案を足蹴にするほどほとんど理解不可能なもの凄い存在らしい。これをナニモノと呼べばいいのか。実は魔物なのだが、有権者住民にとって魔物ではないらしく、非常に親しみ深い身近らしい。魔物に請願するって、魂を売るようなものだ。
それでも河北は世論調査を重ねている。いまの県政と県勢との鼻息はTVニュース等で十分すぎるほどに喧伝されている。そんななか、河北はこの調査記事を1面トップに持ってきた。おいおい、大丈夫かよと心配する。この記者や編集関連部署に人事粛正の嵐が吹いていなければよいが、などと老婆心となる。粛々と進む粛正人事によって、それこそ何年もかけながらの、じわじわと記事内容を惨めに劣化させる過程や消滅していく模様を眺めさせられることになる羽目は想像に容易い。裏はもちろん、霞ヶ関の官僚群と地方出向なる出世街道だけを走り続ける膨大な忖度組群がいつも居る。この中央組を常に油断なく区分けするマーキング監視が、いつまでもこの地域に住み続けたいと願う住民の責務だ。
なお、この記事で「国家」や「国民」の名詞は出張らない。
戻る。オナガワ再稼働に知事が何故出てくるのかがさっぱり分からない。法の規定で知事が筆頭に出張るらしい。ならば、オナガワの末代までの後始末は県民の象徴たる現知事がすべて請け負うという意味と理解すればよい。何を意味するのかは素人には解せないが、有権者住民の代表は県を構成する自治体長会議らしく、オナガワ再稼働を県の構成市町村長会議の総意なる「民意」にすり替えることまで企んだ。立地2市長以外の県民はゲンパツ再稼働に関して、2市町をのぞく各首長にはもちろん、県議会議員個別、また知事の公約に、特定の同意を与えたことはないはずだ。個別市町村長に至っては、具体的には所在の岩沼市長がオナガワ再稼働推進を岩沼市民に公約したかどうかなどを調べるのが最も手っ取り早い。一方、知事の場合は選挙公約したとしなければならない。
行政とは住民同意を得ない世情操作のようなものだ。セイジだから仕方がないが、セイジは世情のように風のように心地よく流れない。一般世情を大切にするという噂は全く聞いたことがない。ゲンパツと対峙して「自分はナニモノ」と問うは、身近な(と説明される地方自治体の)金世情政体なる真実世界(事実世界ではない)では全く意味をなさない。
河北の世論調査では、オナガワ再稼働は支持されていない。のだが、これはいわゆる「民意」ではないこともとくと知っていなければならない。世論はいつでもひっくり返る、ものだ。(市町村民、県民、国民)なる住民(有権者限定?)が神に誓ったなどという世論調査があるとは聞いたことがない。
女川は新しい道路で張り巡らされ、避難経路は充分で避難訓練も充分に重ねられていると聞いて、そうなったんだ、よかったとほっとする。逃げ場がなかったであろう浜や島々に想いを寄せる必要もなく、もう大丈夫になったのだと安心する。もちろん、車の渋滞や艀が向かう港や船着き場の壊滅などは絶対発生しない。 (Drソガ)